縄文と大阪の古地図 [美術館]
谷四にお能と生け花を観に行った帰り、縄文の出土品が
大阪歴史博物館に展示してあるってことで、「蒐集家・
高島唯峰 明治期考古学の遺産」と「大阪の近代化と町
水帳から公文書へ」を覗いてみました。
先ずは縄文でしょう!ってことで、8階特集展示室で特
集展示してある「蒐集家・高島唯峰 明治期考古学の遺
産」へ。
明治時代、日本では考古学がまだまだ学問として確立し
ておらず、出土品が古物や珍品として好事家の趣味の一
環として収集されていた頃、高島唯峰(多米治)は、東
京銀座で歯科医を営むかたわら、東京人類学会に入会し、
関東地方を中心に縄文時代の貝塚出土品を収集すること
に熱中した人物だそうです。
高島の集めた出土品の内、1万3千点あまりが、滋賀県長
浜市にあった鍾秀館(下郷共済会)という大正時代の私
立博物館に売却され、戦後、収蔵品が分散し、約7千点
が大阪歴史博物館に収められたそうです。
貝塚で人骨を発見したのも高島が参加した遠足会(発掘
調査?)だそうで、その当時は、何故、貝塚に人骨がる
のかは判らなかったそうです。
今回、特に見たかったのは重要文化財の“人面装飾付注
口土器”で、急須のふたの部分に土偶の頭がのったよう
な不思議な土器です。
これ以外にも重要美術品の“鹿角製装飾具”や土偶などが
多数展示してありました。
展示品は、縄文時代後期末から晩期に品が多く、火焔型
土器のようなデコラティブな感じではなく、シンプルで
実用性の高そうな品が多いような気がしました。とは言
え、縄文が楽しめる面白い展示でした。
6階の特別企画展「大阪の近代化と町 水帳から公文書へ」
も入館料だけで見ることができたのでちょっとだけ覗い
てみました。
タイトルになっている水帳とは、町々で作成していた土
地台帳のことだそうで、その資料を追うことで、江戸時
代から明治、大正の近代化の過程をトレースしようと言
う企画ってことでした。
古文書だけで、町の変遷をイメージするのは、私のよう
な素人には難しいんですが、明暦元年(1655年)に作
成された“道頓堀川大絵図”と、明治9年(1876年)に作
成された“大阪市中地区町名改正絵図を見比べることで、
大阪市内の変容が見て取れて面白かったです。
展示でちょっと興味深かったのは、捨て子の話で、江戸
時代の大坂では、捨て子が発見された場合、捨て子の養
子先を探す責任や、捨て子の養育料などは、町の負担と
されたそうです。そんな捨て子中で、道修町の捨て子は、
今の“うめきた”界隈にあった梅田墓に埋葬されたそうで
す。そういえば、あの辺りで昨年でしたか人骨がたくさ
ん出ましたね(あれは捨て子の墓跡ではないそうないそ
うですが・・)。街全体で子供の面倒を見ると言う仕組
みは素晴らしいですね。
特別展示以外の常設では、7階の大大阪の時代で、ちょ
うど今やっている朝ドラの“おちょやん”の世界って感じ
で、芝居のまち道頓堀の角座前を再現した等身大のジオ
ラマを楽しむことができました。
大阪歴史博物館に展示してあるってことで、「蒐集家・
高島唯峰 明治期考古学の遺産」と「大阪の近代化と町
水帳から公文書へ」を覗いてみました。
先ずは縄文でしょう!ってことで、8階特集展示室で特
集展示してある「蒐集家・高島唯峰 明治期考古学の遺
産」へ。
明治時代、日本では考古学がまだまだ学問として確立し
ておらず、出土品が古物や珍品として好事家の趣味の一
環として収集されていた頃、高島唯峰(多米治)は、東
京銀座で歯科医を営むかたわら、東京人類学会に入会し、
関東地方を中心に縄文時代の貝塚出土品を収集すること
に熱中した人物だそうです。
高島の集めた出土品の内、1万3千点あまりが、滋賀県長
浜市にあった鍾秀館(下郷共済会)という大正時代の私
立博物館に売却され、戦後、収蔵品が分散し、約7千点
が大阪歴史博物館に収められたそうです。
貝塚で人骨を発見したのも高島が参加した遠足会(発掘
調査?)だそうで、その当時は、何故、貝塚に人骨がる
のかは判らなかったそうです。
今回、特に見たかったのは重要文化財の“人面装飾付注
口土器”で、急須のふたの部分に土偶の頭がのったよう
な不思議な土器です。
これ以外にも重要美術品の“鹿角製装飾具”や土偶などが
多数展示してありました。
展示品は、縄文時代後期末から晩期に品が多く、火焔型
土器のようなデコラティブな感じではなく、シンプルで
実用性の高そうな品が多いような気がしました。とは言
え、縄文が楽しめる面白い展示でした。
6階の特別企画展「大阪の近代化と町 水帳から公文書へ」
も入館料だけで見ることができたのでちょっとだけ覗い
てみました。
タイトルになっている水帳とは、町々で作成していた土
地台帳のことだそうで、その資料を追うことで、江戸時
代から明治、大正の近代化の過程をトレースしようと言
う企画ってことでした。
古文書だけで、町の変遷をイメージするのは、私のよう
な素人には難しいんですが、明暦元年(1655年)に作
成された“道頓堀川大絵図”と、明治9年(1876年)に作
成された“大阪市中地区町名改正絵図を見比べることで、
大阪市内の変容が見て取れて面白かったです。
展示でちょっと興味深かったのは、捨て子の話で、江戸
時代の大坂では、捨て子が発見された場合、捨て子の養
子先を探す責任や、捨て子の養育料などは、町の負担と
されたそうです。そんな捨て子中で、道修町の捨て子は、
今の“うめきた”界隈にあった梅田墓に埋葬されたそうで
す。そういえば、あの辺りで昨年でしたか人骨がたくさ
ん出ましたね(あれは捨て子の墓跡ではないそうないそ
うですが・・)。街全体で子供の面倒を見ると言う仕組
みは素晴らしいですね。
特別展示以外の常設では、7階の大大阪の時代で、ちょ
うど今やっている朝ドラの“おちょやん”の世界って感じ
で、芝居のまち道頓堀の角座前を再現した等身大のジオ
ラマを楽しむことができました。
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